群馬県には教会が118箇所あるらしい(2013年12月現在)。 いろんな教団・教派があるけれども、基本的にはイエスをキリストと信じ、神を覚え、賛美・礼拝する場所として置かれていると思います。 ところでクリスチャンが集まる場所は、いわゆる教会(ステンドガラス、十字架などが特徴)じゃなきゃダメなのでしょうか。使徒行伝12・12を読むとマルコの家で祈りや礼拝が持たれていたようです。つまり「家の教会」と呼ばれる形態が取られていたのです。ある記事によると現在、中国でのクリスチャン人口1億人、家の教会80万以上とあり、救われる人がどんどん起こされている様子を伺い知ることができます。 私もいつか自宅を開放して家の教会を持ちたいと思っております。必ずしも親族や血縁者のみで形成される「家族」ではなく、キリストを信じるものが家族となる。そこには教団・教派に見られるような組織的要素が一切ないキリストを中心とした家族がある。 「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」 と 言われたイエスのみことばを掲げたい。 『そして毎日、心を一つにして宮に集まり、 家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。 主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』 新約聖書 使徒2章46節47節  コメントはご自由にどうぞ。

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2014年10月10日

雪への備え

今年の2月15日に大雪が降った後、除雪関連のグッズが一気に売り切れたことを教訓に、
ホームセンターでは雪かきスコップが大量に入荷されておりました。

普段から防災意識が薄かった我が家では、除雪スコップを用意しておらず、
当日はとても非効率な作業をしたことを思い出します。

またあの規模の雪が降るのか分かりませんが、もう泣きべそをかきながら作業するのは
いやだから、前もって購入しておきました。

聖書には、雪どころではない、もっと重要な備えについて言及されております。

1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。
7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言った。
13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。





  


Posted by marrow3 at 23:18Comments(0)日記

2014年06月11日

京都へゆく

群馬県の公立中学や高校は、修学旅行の行き先を京都に選択するところが多いようです。
私も中・高と、京都に行きそれ以来ずっと(約20年間)行く機会がなかったのですが、
先日講演会に参加するために上洛して参りました。

講演会終了後は、とにかく坂本竜馬氏のゆかりのある場所を回っておりました。
なかでも、材木屋の「酢屋」さんは竜馬氏をかくまい、支援されていたようです。
現在も変わらずに材木屋を営んでいますので、これからもぜひ応援したいお店です。
訪れた記念にグッズを購入してきました。


また、こちらのお店のエピソードを聞いたとき、聖書のみことばを思い出しました。
箴言の24章です。

『捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。

もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。
この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか。』

見返りを求めず、犠牲をいとわず、本当に助けを必要な人に対して純粋な気持ちで
手を差し伸べることのできる人は、美しい人だと思う。

ところで、別の角度から考察すると、私たちの多くは、誰かを助ける側の人間でこそあれ
助けられる側の人間ではないという自負というか、錯覚があるかもしれません。
しかし、聖書の福音の主題からみれば、私たちこそがまさに助けられる必要があることを
気づかされるのです。
私たちはいつか死を迎えなくてはなりません。この世との、また親しい人との断絶(別れ)です。
いや、さらに恐れるのは創造主(神様)との断絶です。
これらの原因は「罪」であり、罪から来る報酬である「死」を受けることになります。

しかし、聖書のメッセージは、キリストが私たちのために身代わりとなって
死んでくださったことにより、永遠の死から助けられ、救い出されたこと知らせるのです。

私はこれこそが神の愛で、真実だと信じております。  


Posted by marrow3 at 19:41Comments(0)

2014年05月02日

鍬夢庵さんにゆく

先日、山猫庵さんのイベント(年2回開催)に参加したところ、
敷地内の一角で、野鳥の撮影がご趣味だという方が、写真展&販売を
なさっておりました。

あまりにも綺麗な写真に魅了されただけでなく、野鳥に対する熱心な
トークにも心を打たれました。

この方の紹介で、藤岡市の鍬夢庵(しゅうむあん)さんに伺うことになりました。
雑木林の中に平屋を構え、晴耕雨読の生活をされているのかと想像して
おりましたが、それだけでなく体験学習や勉強会を開いたりと、多くの方との
繋がりの中、日々精力的に活動されているご様子で、そのスケールの大きさに
畏敬の念を持ちました。こちらで学ばせて頂けることはたくさんあります。
ただ、私は人見知りが強く、今後も伺ってよいものかどうか葛藤しています。

ご主人も野鳥の観察がご趣味だそうで、餌台(バードフィーダー)にやって来た
鳥の写真を見せて頂きました。写真には竹を半分に割った餌台が写っていたので、
帰宅後に早速見よう見まねで、竹を利用した餌台を作ってみました。
竹は伐採する時期があるようで、この時期(秋?)に伐採したものは、長持ちすると
いいます。ちょうど、昨年の秋から畑で寝かしておいた竹があったので、助かりました。

こんな感じです。
果たしてどんな鳥が来るようになるでしょうか、楽しみです。

だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、
何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしては
いけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつな
ものではありませんか。

空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、
鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。

あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばす
ことができますか。

なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、
よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。

しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、
このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。

きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装って
くださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。
信仰の薄い人たち。

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配
するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。

しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知って
おられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、
それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。
労苦はその日その日に、十分あります。

(聖書)
  


Posted by marrow3 at 22:14Comments(0)日記

2014年04月20日

イースター

クリスチャンダイヤリーによると、本日はイースターとなっておりました。
最近、巷でもイースターという言葉をよく耳にするようになって来ました。
欧米で流行っていたクリスマスの文化を日本が取り入れて、
すっかり定着しましたが、今度はイースターまでも取り入れようと
している動きがあります。
日本人はイベント好きなのでしょう。あちこちからイベントを取り入れるのは
自分らが楽しむための理由づけであって、必ずしもイベントの本質を意識して
いるわけではなさそうです。
しかし、子供から、これは何の日なのか、何を祝う日なのかと聞かれた時、
大人は一体何と答えるのだろうか...。

クリスマス(キリストが誕生したことを祝う)も大切ですが、
イースター(キリストが十字架に掛かって死なれて、3日目に復活したこと
を祝う)も大切なことだと言えます。

聖書から関連箇所を引用すると、
「もし、死者の復活がないのなら、『あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしよう
ではないか。』ということになるのです。思い違いをしてはいけません。
友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。」
とあります。

以前の私はたいそう無気力でした。周りの人が一生懸命頑張っている姿を
冷めた目で見ていただけでした。
どうせ、人はいつかは死ぬのだから、今の頑張ったとしても結局は無に帰する
わけだから、意味がないと.....。

これは完全に、人は死んだら終わりという概念の中に生きていた証拠です。
いや、あたかも「人は死んだら終わり」教という宗教の信仰者のようでした。

また、ある人はこれを肯定的に捉えて、死んだら終わりなのだからこそ、
今を精一杯生きようとします。
将来のために希望を抱いて、良い生活、快適な生活を求めます。
しかし、最終的には死が待っています。
死を待つ床の上で、私の人生なんだったのかと、思うのではないでしょうか。

ところが、聖書に出会うと、どうやら人は死んで終わりではないことを知ります。
「キリストはわたしたちの初穂として復活された」とあり、復活があることを、
そして死んで終わりではないことを、前もって明らかにされた訳であります。
実際その復活したキリストを目撃した500人以上の人たちによって、証言
されています。

死んだら終わりなのか、終わりじゃない(復活がある)のか
またはそんなのどちらでも関係ない(考えるだけ無駄)という、
3つの信仰がありますが、人は結局のところ、信仰によって生きる者だから、
その人の言動の端々に、生き方そのものに信仰が現れるものです。

ところで、キリストは私たちのために復活されたことの前に、
キリストは私たちのために十字架に掛かって死なれたという記事があります。

私たちを愛し、私たちが永遠の滅びの中に入らないよう、わたしたちの身代わりに
死なれたというのです。
死は断絶を意味し、愛する兄弟、親、子供、友人と永遠に別れるという悲しい
出来事です。私たちのことだけではありません。神にとっても、愛する私たちと
永遠に別れることになるわけです。
しかし、復活があったらどうでしょう。天国で再会できるのです。
復活を信じていない人が口先で、その場しのぎで言うような概念的な天国の
ことではありません。神が用意してくださる永遠の住まい・天国のことです。

キリストを信じる信仰、キリストが私たちを愛し、私たちのために死なれ、
復活されたという信仰、この信仰によって救われるのです。
人の行ない、業績などは一切関与しません。

本日はイースターということで、復活に関して考えてみましたが、
教会によっては、特にイースターを祝うわけではありません。
理由 : 毎週(いつも)、復活されたキリストを覚えているため、
この日を特別視していないところもあります。


この日の午後、高崎市 「鼻高の丘」で菜の花を観て来ました。
菜の花だけでなく、芝桜やチューリップも鮮やかに咲いており、多くの人を喜ばしていました。





  


Posted by marrow3 at 22:13Comments(0)日記

2014年01月27日

山猫庵さんに行く 2nd

焼きまんじゅうを食べたい、と妻が言ったので
また山猫庵さんへ伺わせて頂きました。

ご主人の心を知るには、宮沢賢治の作品を読むのが良いと思い
今回は「銀河鉄道の夜」と「雨ニモマケズ」を読んでおきました。

確か中学生の時に一度読んだ記憶がありますが、その当時は何の感慨も
湧きませんでした。というかまったくチンプンカンプンで、読むのが辛かったとしか
記憶にありません。
しかし、大人になって改めて読んでみると、共感できる点があることに気づかされます。
古今東西、これまでに多くの方が人生の目的を真剣に考え、その人なりの
言葉を発してきました。その中で共通するのは、多くの方が自己犠牲というか、
誰かのために生きる、生きたいという願いを持っているということです。

また、両者の作品および「どんぐりと山猫」は、「聖書」の読んだ人でないと
書けない内容です。ウェキペディアで彼の生い立ちを調べてみると、
幼いころから仏教に親しんだとありますが、別のサイトには齋藤宗次郎という名の
クリスチャンの友人がいたと書かれていたので、彼から少なからず影響を受けた
ものと推察します。現代においてもクリスチャンというと、迫害の対象になっており
ますが、真実をみる目をもっている人や心の広い人は迫害せずに受け入れてくれます。

宮沢賢治が好きな人は、きっと心が広く、いろんな考え、思想、信仰の人を認めて
受け入れて下さる優しい人なのかもしれません。

今回もおいしく頂戴しました。土日のみの営業とのことですが、榛名方面に行かれた方は
是非足を運んでみてはいかがでしょうか。

安中方面も意外と近いです。
お店を出たあと、松井田の「ろうばいの郷」へ行ってみました。
そろそろ見頃を迎えます。
ろうばいの郷_2014
  


Posted by marrow3 at 01:14Comments(0)日記

2014年01月05日

山猫庵にゆく

知り合いの方より、山猫庵の話を聞いたので早速出かけてみました。
動物保護センターではなく、焼きまんじゅう屋さんのほうです。

カーナビに住所を登録して、いざ出発。1時間弱の到着予定とのこと。
榛名山の近くのようで、山を目指して進んでゆきました。
ところが、目的地付近に着いたのにそれらしきお店が見当たりません。
周辺をぐるぐる回りながら榛名神社まで来てしまいましたので、Uターン。
宮沢賢治の「どんぐりと山猫」の話のように、化かされたのではないかと
思えるほど見当たりません。
中室田まで戻ったところで、第1村人?発見。車を停めて、山猫庵を
ご存知ですか?と訪ねたところ、非常に分かりやく道順を教えて
頂きました。お店は国道406号線沿いにあるというので、カーナビが示した
道とは別の道でした。
本来なら室田の信号で直進(榛名山方面)ではなく、左(倉渕村方面)に
向かわなくてはならなかったのに、カーナビは残念ながら直進を誘導しました。

車酔いしつつやっとのことで、到着しました。自宅を出発してからかれこれ
1時間30分以上掛かったことになります。

お店に入ると達磨ストーブがあり、木の温もりと優しい暖かさとに包まれました。
また、ご主人の趣味で作られた木の人形がお店の内外に並べられていて、
とても雰囲気の良いお店でした。

群馬県というと焼きまんじゅうが有名らしいのですが、私はほとんど食べたことが
ございません。
お店のお勧めだという、ごまみそ焼きまんじゅうと、あん入り焼きまんじゅうを
頂きました。
私は断然、ごま味噌焼きまんじゅうが美味しかったのですが、、女性陣は
あん入りのほうが良いみたいです。

お店へ伺うにあたり、前もって「どんぐりと山猫」と「児童詩のすすめ」を読んで
おきましたが、イメージどおり、キリリと光る情熱と愛情に富んでいる優しそうな
ご主人でした。いつまでもお元気でいて欲しいです。



ご主人が心を込めて作られた木製の人形を、我が家の住人として迎えました!

  


Posted by marrow3 at 22:31Comments(0)日記

2013年12月22日

教会でのクリスマス会

教会のクリスマス会に参加しました。
歌に踊りに、聖書の話と、これぞ本場(?)の教会ならではの祝会でした。

クリスマスはキリストの誕生日ではなく、キリスト(救い主)が私たちのために生まれて来て
くださったことを祝う日です。
なぜ12月25日に祝うのかはわかりませんが、救い主が聖書の示すとおりに(約束の通りに)
確かに来られたことが重要であり、また、この方が私たちの身代わりに十字架の上で
死んでくださったことにより、神の愛を知ることができるのです。

私たちは必ず死にますが、寿命、心不全、病気などの理由で死ぬのでしょうか。
聖書には人が罪を犯したので、死ぬようになったとあります。
「罪から来る報酬は死」であり、この定めからは誰も逃れることはできません。
また、死といえども2種類の死があり、①肉体の死、②霊的な死、が挙げられ、
前者の肉体の死に関しては多くの方が目撃しておりますので当然のこととして受け入れて
おりますが、後者の霊的な死に関しては聖書に書かれているだけで、実体験として受けた
ことがないのでわかりません。しかし、聖書にははっきりと書かれております。

キリストが聖書に書かれている約束の通りに来られたのだとしたら、霊的な死に関する情報も
正しいと理解すべきでしょう。

霊的に死ぬと最終的には、神がおらず、光のない場所で永遠を過ごすことになるでしょう。

人は罪を犯し、創造主なる神と断絶しました。この断絶状態が永遠に続くとなると
気が遠くなるだけでなく、まことに耐え難いものです。ところが神は罪を犯した人間を
お憐みになり、そのひとり子、イエスキリストをこの地上に送り、この方を通して救いを完成して
くださいました。神は私たちにキリストをプレゼントしてくださったのです。
私たちは神からのプレゼントであるキリストをただ受け取ればよいのです。
受け取ったもの(信じたもの)は罪赦され、永遠の天国で神と喜び満ち溢れた永遠を
楽しめるのですから、是非ともキリストを受け取ってほしいです。  


Posted by marrow3 at 23:00Comments(0)教会

2013年12月01日

こんにゃく博物館にゆく

富岡市のこんにゃく博物館へ行ってきました。
↓ ここ
http://konnyaku-museum.com/


試食コーナーがあり、しかも食べ放題だという情報を得たからです。
工場見学のあと、売店コーナーに向かうと、その脇に無料のバイキングコーナーが
ありました。
何種類ものこんにゃく料理が山盛りで並んでおり、無料提供して大丈夫なのかと
心配になるほどです。
今だかつてこれほどサービス精神旺盛な食品会社に出会ったことがありません。

一方、ある教会では日曜日になると公園で炊き出しを行ない、多くの方に食事を提供して
いる様子を見たことがありますが、本当にすばらしい働きだと思います。

聖書には、「受けるより与える方が幸いである。」とあり、これをキリストのことばとして
紹介されています。
私たちは今まで愛情を含め、たくさんのものをもらって成長して参りました。
愛を受けてきたものは、愛を知り、他人を愛することができます。
人生は愛のリレーのようです。

キリストは私たちを愛し、いのちを与えて下さいました。
たとえ親から愛情を受けなくても、十字架を見上げれば、神は私たちを愛している
ことがわかります。私のような罪人のために死んでくださったキリストがいるのです。



  


Posted by marrow3 at 23:00Comments(0)日記

2013年07月13日

角屋カフェ Kadoya Cafe

大型デパート・有名飲食店などの進出により、駅前商店街の衰退に関する
深刻な問題が各地で出ております。

結局、消費者が開放的な、何でも揃う店に憧れて(惑わされて)地元の小さな店に
目を向けなくなったのだろう。

しかし、消費者の中には大型店に飽きて、地元に根を下ろした、人と人との交流を
大事にする小さなお店にこそ価値があるのだと気づく者も増えて来たのではないでしょうか。

藤岡駅前に、物置を改装してカフェとしてオープンさせた「角屋」さんがあると聞き、
早速伺ってみました。昭和の時代を思い起こす、とても落ち着いた感じの良いお店でした。
40年前に建てられた家ならどの家にも急な階段が付いていたと思いますが、こちらにも
現存しており、この階段を上がると席が設けられておりました。

(小学生以下の方が入店できない理由は、この階段の角度が急である所以でしょうか?)

メニューをみると、どの料理にもオーナーの食に対する真摯な姿勢を読み取ることが
できます。
安全な食材の使用、器の選定、盛り付け方など、どれも感動ものです。
最近「美味しんぼ」(漫画本)を通して、「食・器・心」に興味を持ち始めたので、
とても気に入りました。
山岡氏が岡星という店を大事にする気持ちが分かるような気がします。

こういうお店こそ、末永く続いてほしいと心から願っています。


  
タグ :角屋kadoya


Posted by marrow3 at 12:12Comments(0)日記