群馬県には教会が118箇所あるらしい(2013年12月現在)。 いろんな教団・教派があるけれども、基本的にはイエスをキリストと信じ、神を覚え、賛美・礼拝する場所として置かれていると思います。 ところでクリスチャンが集まる場所は、いわゆる教会(ステンドガラス、十字架などが特徴)じゃなきゃダメなのでしょうか。使徒行伝12・12を読むとマルコの家で祈りや礼拝が持たれていたようです。つまり「家の教会」と呼ばれる形態が取られていたのです。ある記事によると現在、中国でのクリスチャン人口1億人、家の教会80万以上とあり、救われる人がどんどん起こされている様子を伺い知ることができます。 私もいつか自宅を開放して家の教会を持ちたいと思っております。必ずしも親族や血縁者のみで形成される「家族」ではなく、キリストを信じるものが家族となる。そこには教団・教派に見られるような組織的要素が一切ないキリストを中心とした家族がある。 「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」 と 言われたイエスのみことばを掲げたい。 『そして毎日、心を一つにして宮に集まり、 家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。 主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』 新約聖書 使徒2章46節47節  コメントはご自由にどうぞ。

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2013年12月22日

教会でのクリスマス会

教会のクリスマス会に参加しました。
歌に踊りに、聖書の話と、これぞ本場(?)の教会ならではの祝会でした。

クリスマスはキリストの誕生日ではなく、キリスト(救い主)が私たちのために生まれて来て
くださったことを祝う日です。
なぜ12月25日に祝うのかはわかりませんが、救い主が聖書の示すとおりに(約束の通りに)
確かに来られたことが重要であり、また、この方が私たちの身代わりに十字架の上で
死んでくださったことにより、神の愛を知ることができるのです。

私たちは必ず死にますが、寿命、心不全、病気などの理由で死ぬのでしょうか。
聖書には人が罪を犯したので、死ぬようになったとあります。
「罪から来る報酬は死」であり、この定めからは誰も逃れることはできません。
また、死といえども2種類の死があり、①肉体の死、②霊的な死、が挙げられ、
前者の肉体の死に関しては多くの方が目撃しておりますので当然のこととして受け入れて
おりますが、後者の霊的な死に関しては聖書に書かれているだけで、実体験として受けた
ことがないのでわかりません。しかし、聖書にははっきりと書かれております。

キリストが聖書に書かれている約束の通りに来られたのだとしたら、霊的な死に関する情報も
正しいと理解すべきでしょう。

霊的に死ぬと最終的には、神がおらず、光のない場所で永遠を過ごすことになるでしょう。

人は罪を犯し、創造主なる神と断絶しました。この断絶状態が永遠に続くとなると
気が遠くなるだけでなく、まことに耐え難いものです。ところが神は罪を犯した人間を
お憐みになり、そのひとり子、イエスキリストをこの地上に送り、この方を通して救いを完成して
くださいました。神は私たちにキリストをプレゼントしてくださったのです。
私たちは神からのプレゼントであるキリストをただ受け取ればよいのです。
受け取ったもの(信じたもの)は罪赦され、永遠の天国で神と喜び満ち溢れた永遠を
楽しめるのですから、是非ともキリストを受け取ってほしいです。  


Posted by marrow3 at 23:00Comments(0)教会