群馬県には教会が118箇所あるらしい(2013年12月現在)。 いろんな教団・教派があるけれども、基本的にはイエスをキリストと信じ、神を覚え、賛美・礼拝する場所として置かれていると思います。 ところでクリスチャンが集まる場所は、いわゆる教会(ステンドガラス、十字架などが特徴)じゃなきゃダメなのでしょうか。使徒行伝12・12を読むとマルコの家で祈りや礼拝が持たれていたようです。つまり「家の教会」と呼ばれる形態が取られていたのです。ある記事によると現在、中国でのクリスチャン人口1億人、家の教会80万以上とあり、救われる人がどんどん起こされている様子を伺い知ることができます。 私もいつか自宅を開放して家の教会を持ちたいと思っております。必ずしも親族や血縁者のみで形成される「家族」ではなく、キリストを信じるものが家族となる。そこには教団・教派に見られるような組織的要素が一切ないキリストを中心とした家族がある。 「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」 と 言われたイエスのみことばを掲げたい。 『そして毎日、心を一つにして宮に集まり、 家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、 神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。 主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。』 新約聖書 使徒2章46節47節  コメントはご自由にどうぞ。

2014年06月11日

京都へゆく

群馬県の公立中学や高校は、修学旅行の行き先を京都に選択するところが多いようです。
私も中・高と、京都に行きそれ以来ずっと(約20年間)行く機会がなかったのですが、
先日講演会に参加するために上洛して参りました。

講演会終了後は、とにかく坂本竜馬氏のゆかりのある場所を回っておりました。
なかでも、材木屋の「酢屋」さんは竜馬氏をかくまい、支援されていたようです。
現在も変わらずに材木屋を営んでいますので、これからもぜひ応援したいお店です。
訪れた記念にグッズを購入してきました。
京都へゆく

また、こちらのお店のエピソードを聞いたとき、聖書のみことばを思い出しました。
箴言の24章です。

『捕らえられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。

もしあなたが、「私たちはそのことを知らなかった」と言っても、人の心を評価する方は、
それを見抜いておられないだろうか。あなたのたましいを見守る方は、それを知らないだろうか。
この方はおのおの、人の行いに応じて報いないだろうか。』

見返りを求めず、犠牲をいとわず、本当に助けを必要な人に対して純粋な気持ちで
手を差し伸べることのできる人は、美しい人だと思う。

ところで、別の角度から考察すると、私たちの多くは、誰かを助ける側の人間でこそあれ
助けられる側の人間ではないという自負というか、錯覚があるかもしれません。
しかし、聖書の福音の主題からみれば、私たちこそがまさに助けられる必要があることを
気づかされるのです。
私たちはいつか死を迎えなくてはなりません。この世との、また親しい人との断絶(別れ)です。
いや、さらに恐れるのは創造主(神様)との断絶です。
これらの原因は「罪」であり、罪から来る報酬である「死」を受けることになります。

しかし、聖書のメッセージは、キリストが私たちのために身代わりとなって
死んでくださったことにより、永遠の死から助けられ、救い出されたこと知らせるのです。

私はこれこそが神の愛で、真実だと信じております。



Posted by marrow3 at 19:41│Comments(0)
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